ココロの荷物のおろしかた

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共依存は,依存者に対する依存です。
もう少し正確に言うと,依存者の世話をすることに依存しています。

この場合の「依存者」とは,必ずしも「○○依存症者」を指すわけではありません。
例えば子供,支えの必要な親や兄弟,友人など,広い意味で「依存してくる人」だと考えてよいと思います。

共依存も,パチンコ依存症者がパチンコに対して,薬物依存症者が薬物に対して,アルコール依存症者がアルコールに対して,依存するのとなんら変わりはありません。

ただ,少し違うのは,パチンコ依存症者が,内心自分のパチンコ依存に対し不安や罪悪感を抱いていることが多いのに比べ,共依存者は良かれと思って,あるいは依存者のために仕方なく面倒をみている,という意識が強いので,なかなか自分が依存しているという自覚をもつことができません。
また周囲の人間から見ても,どうしようもない依存者を見捨てることなく世話をし続ける善意の人,愛情深い人という見方をされることが多く,そこに潜んでいる問題に目が向けられることは,むしろ少ないのかもしれません。

一般的に見て,それは幸せな姿ではありません。
依存者の世話をし,場合によっては尻拭いをするわけですから,依存者に多大な犠牲を強いられ,不自由を強要され,苦痛を押し付けられます。

しかし,それが依存である以上,共依存者は依存者の面倒を見ることに,一見辟易とし,不幸を感じながらも,一種の悦びや満足感を感じています。

なぜそれが悦びや満足につながるのか?

それは,依存者の面倒を見,その問題を肩代わりしてやることによって,依存者にとってなくてはならない存在になることが可能だからです。
誰かにとって,絶対必要不可欠な存在になることができるのです。

なぜそのような存在になることに悦びを感じるのでしょうか?

以前から何度も触れている依存症者の心理として,「自己評価の低さ」が挙げられます。
自分で自分をプラスに評価できない,認められないからこそ,自力で立つことができず,何かに依存します。

共依存者の心理もこれと同じことです。
むしろ,依存対象が「物質」や「行為」でないぶん,実はわかりやすいのかもしれません。
「自己評価」が低く,「自立できない」からこそ,誰かに必要とされる,誰かを支え続ける環境は,自分の存在意義の裏付けとして有効であり,必要なのです。

ましてそれが,大切な家族や,配偶者であれば。
大事な誰かの,絶対に必要不可欠な存在になることが出来るのです。

「この人は自分がいないとダメになる」

この言葉は共依存者が,自身の共依存に無自覚なままに口にする言葉として最も代表的なものですが,まさしく共依存症の本質を言い当てていると思います。

「自分がいないとだめ」=「自分はこの人にとって絶対必要不可欠」

という図式がそこにはあります。

この「絶対必要不可欠」という価値評価を得られないと,自分の存在を認めることができません。

そして,悲しいことに。

共依存者は,自分の存在を守るために,依存者が自立するのを妨げてしまうのです。

 自分を頼って欲しい。
 どこまでも自分を必要として欲しい。
 自分無くして生きられないくらいに。

その欲求が(むろん無意識にですが),依存者へのイネーブリングとなって現れます。
献身的に依存者の面倒を見,依存者の変わりに問題の解決に奔走し,怒り,疲弊し,消耗しつつ,それこそが生きがいとなってしまいます。

そしてその結果,共依存者は,依存者の生命線を握ってしまうことになります。
依存者は本当に,共依存者なくしては破綻してしまうのですから。
依存者に振り回されているように見える共依存者ですが,実際には依存者のコントロール権を手に入れているのです。

このように書くと,「共依存者」はなんて残酷な人間なんだ,と思えてしまうかもしれません。

そうではないのです。
決して共依存者が特殊なのではありません。

最初に言いましたが,これは「依存」の一つの形なのです。
パチンコ依存やアルコール依存と変わりありません。

依存は生きるための一種の「方便」です。
自分が生きるために,依存せずにはいられない何らかの歪みがあり,そこに依存者が存在し,共依存症が起こります。

そこにあるのは,痛いくらいの「求められたい」「必要とされたい」という願いなのではないでしょうか。

ただ,悲しいかな,その願いが無自覚なままに,依存者へのイネーブリングとなってしまうのです。


ここで誤解をしないで欲しいのは,決して「共依存者が依存者を作っている」のではない,ということです。
依存者と共依存者が引き合うのは事実です。
ですが,もともと依存症の資質をもっていないと依存症にはならないし,依存者がいなければ共依存者も存在できません。
依存者と共依存者の歯車がかみ合ってしまい,双方の依存度が深まってしまうことがありますが,依存者が共依存者を作るわけでもなければ,共依存者が依存者を作るわけでもありません。
双方の資質を持ったもの同士が呼び合ってしまう,ということはあると思いますが。

共依存者は自責意識が強く,共依存を自覚したとしても,ともすれば「今の状況は自分が作ったもの」として責任を感じかねません。
「依存せずにはいられなかった自分」というものは,またも置き去りにされてしまうのです。
サイトマップヘ 依存症は,自分を責めたり,相手を責めたりして解決するものではないです。
それは,物質への依存も,行為への依存も,関係への依存も,変わることはありません。
依存する本質に目を向けなければ,結局自由になることは難しいのではないかと思います。

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