![]()
|
■このサイトについて ■依存症ってどんなもの? ●依存症の意味 ●嗜癖の3分類 ●依存症になるのは 意志薄弱だから? ●依存症は治せるか ■パチンコ依存症とは? ◆ある依存症者 ―Kさんの場合 ◆パチンコ依存症を考える ●依存する心のプロセス ●パチンコ依存症者が 抱える問題 ●回復を求める時 ◆パチンコ依存の処方箋 ◆パチンコ依存症雑感 ■共依存症って何だ? ●共依存症の概念 ●イネーブリングという 考え方 ●共依存者の心の波紋 ●アダルトチルドレン ●共依存を疑った時は ■本のご案内 ―依存症を知りたい時に
■LINK■ ■BBS■
管理人・あきらの現在 …Diary… Crossing |
■依存症ってどんなもの?■ ● 依存症になるのは意志薄弱だから? 【依存症と意志の力】 依存症の人が自分の行為を反省するとき,あるいは依存症者の家族が依存症者を語る時, よく使われる言葉があります。 「意志が弱い」 「自分に甘い」 本当にそうでしょうか? 意志が弱いから依存症になったのでしょか? 自分に甘いから嗜癖行為に溺れてしまうのでしょうか? 最初は私も,自分のことをそのように考えていました。 「私が意志が弱いから悪いんだ。自分で決めたことが守れない私は駄目な人間だ。 もっと自制心が強ければこんなことにはならなかった」 繰り返し,繰り返し,自分を責め,自分を嫌悪しながら,パチスロをやめることが出来ませんでした。 だけど。 「自分」を離れて他者を見ると。 決して,「意志が弱い」とは思えない依存症者がたくさんいることに気づきました。 そもそも,「意志の強さ」って何なのでしょう。 目標に向かって頑張りとおす人でしょうか? 自分を押さえて人に尽くす人でしょうか? 確かに,仕事を人一倍頑張って,いい成績を上げる人っていますね。 スポーツを頑張って,新しい記録を打ち立てるような人もいます。 常に周囲に気を配り,穏やかに優しく振舞って,誰とでも仲良くできる人だっています。 ですが,身の回りのそういう人を思い浮かべてみてください。 仕事でいい成績を残す人は,自宅では疲れきっていたり,家族に対して甘えてしまい,思いやりをもてなくなってしっているかもしれません。 スポーツを頑張る人だってそう。 思うように記録が伸びなかったり,思わ相手に負けてしまうなど,挫折を味わったとき,一気に折れてしまうようなこともあります。 周囲に気を配る人は,自分の気持ちを置き去りにして周りの人の気持ちばかり考えてしまうので,実は自分のストレスを上手に処理できずに,独りになると酷く落ち込んだり,情緒不安定になっているかもしれないのです。 「意志を強く」持って,何かを頑張ってしまった分,バランスがとれなくなって違う何かで気を紛らわさずにはいられなくなることがあります。 これが過剰になると,「依存」という状態になります。 端から見て,一般的に「意志が強い」に分類されるようなタイプの人でも,依存症になる可能性は充分にあるのです。 もしかしたらあなた自身,端から見たら充分に「意志が強い人物」なのかもしれません。 むしろ,依存症になる人は,意志が強い人が多いのではないかと私は思います。 仕事や家庭や人間関係。その他諸々の状況や問題を,何とか自力で解決しようと頑張ってしまう。 たくさんのことを自分で抱え込み,それを適切に解決できない自分はダメだ,と感じてしまう。 「完璧主義」「自分に厳しい」あるいは「自分を評価できず,常に『もっと頑張らなければ』と考えている」などと表現することもできると思います。 このような思考の末に,どうにもならないことまで「意志の力」でどうにかしようと頑張ってしまい,結果,負担(ストレス)を抱えきれず,嗜癖に逃げ込む― という面はあるのではないでしょうか? 「意志が弱い」から「意志を強く持って頑張る」という意識では,依存から離れるのはかなり難しいと思います。 アルコール依存を例にとりましょう。 ついついお酒を飲んでしまい,泥酔します。 酔いが醒めると,また飲んでしまったことに激しい自己嫌悪を感じ,「二度と酒は飲まない」と誓います。 ですが,翌日にはまた,「飲みたい」気持ちがむくむくと湧いてきます。 昨日の自己嫌悪や断酒の誓いは砂のように崩れ落ちています。 ダメだダメだと思いつつ,「一口だけ,一杯だけならいいじゃないか」「泥酔するまで飲まなければいいんだ」「今日こそは一杯飲んだら必ずやめるんだ,自分にはそれができる」と言い聞かせ,酒に手を伸ばします。 結果は―目に見えていますね。 お酒に対する欲求を感じるとき,そこで「意志の力」は介入する余地さえありません。 強かろうと弱かろうと問題ではないのです。 欲求が起こったときに押さえつける力をつけようとするのではなく,どうしてそんなに強い欲求が湧き起こってしまうのかを掘り下げた方が有効です。 何か原因があるはずなのです。 それは,仕事のストレスかもしれません。 家族に自分の気持ちを理解してもらえない寂しさかもしれません。 周囲に気を配る余り押し殺し続けた自己の欲求かもしれません。 どうにも処理できない歪みが寄りかかるものを求め,依存になることがほとんどなのですから。 依存症になる人は,けっして「ダメな人間」ではないのだと思います。 むしろ,「ダメな人間」にならないように頑張るあまり,自分のダメさばかりに目が向いてしまった人であることが多いのではないでしょうか。 【自分を救うための依存】 「依存症は自己治療である」 と聞いたら,どう思いますか? 「こんな問題行為のとこが治療なの?」 と思いませんか? ですが例えば。 *普段は無口だが酒を飲むことで饒舌になる。 *酒を飲むと寝つきの悪さが解消され,よく眠れる。 *イライラした気持ちがタバコで落ち着く。 *仕事でストレスを感じた時パチンコをして発散する。 といわれれば納得できるのではないでしょうか? 嗜癖によって,自分の「生きにくさ」を自分で「治療」しているのです。 別の言い方をすれば, 「人とコミュニケーションする」「良い睡眠を得る」 「気持ちを抑制する」「仕事への活力を得る」 というセルフコントロールのために,嗜癖を行うのです。 どんな嗜癖でも,きっかけは, 「気分がいいから」「楽しいから」 といった要素から始まります。 やがてそれが「嗜癖」と呼ばれる悪習慣になる頃には, 「気分良くなるために」「楽しくなるために」 に変換されています。 これは,逆に言えば, 嗜癖をしなければ「楽しく」なれない現状が存在しているわけです。 嫌な現状でも,目の前に存在している以上は付き合わなくてはなりません。 付き合うために,嗜癖の力を借りて,無理やりにでも「楽しく」「楽」にするのです。 そのために,その時の現状では嗜癖が必要だったわけです。 ストレスから解放されるために,自分を楽にする(救済する)ために嗜癖行為を行うのであれば, それは対象となるストレスとの付き合い方の問題です。 例えば,仕事では完璧を求める意志の強い人だからこそ, そのストレスから逃れるために,ギャンブルに走ったのかもしれません。 家庭に閉じ込められても自己実現を求める意志の強い人だからこそ, アルコールに溺れたのかもしれません。 要は,一面的に単純に自己コントロールの甘さに原因を求めることは出来ないのです。 また,依存症者がスリップ(一度止めた嗜癖行為を行うこと)を繰り返すのも納得できます。 特に同じようなストレスにさらされたとき,(無意識にですが) 救済を求めて嗜癖行為を行ってしまうということではないでしょうか。 だからといって, 「だったら(依存症になっても)いいじゃ〜ん」 と言っているのではありません。 依存症は,とことん行き着けば生命に関わります。 アルコールや薬物などの物質嗜癖は言うまでもありませんが, 過程嗜癖だって,例えばギャンブルで借金がかさんで命を絶つ, 失踪などで社会的存在を自ら抹消する,暴力の結果相手の命を奪ってしまう, などの結果に到ることがあります。 どこかで気づかなければ,最終的には破滅に到ります。 どうして依存症にならなければならなかったのか。 その原因を見つめることは,確かに必要です。 だけど,たとえば「仕事のストレス」「人間関係のストレスから逃げるため」 などの表面的な原因の追究で終わってしまい,さらに 「我慢できない自分が悪い」「能力の無い自分が悪い」 などの思考に陥ってしまうようなら,あまり効果はないように思います。 なぜその仕事が辛いのか。 仕事が上手くこなせない自分の能力のなさ? 面白いと感じられない仕事だから? 職場の環境に恵まれず,苦痛を感じることが多いから? 自分の能力を評価してもらえないから? あるいは 家族とうまくコミュニケーションがとれない? 友達が自分のことをわかってくれない? 他人を信じられない? 一体何が,あなたにそんなに負荷を強いているのでしょうか。 依存してしまう自分を責めて,力任せに矯正しようとするよりも,むしろ大事なことは, まずは依存症になってしまった自分を許すこと。認めること。 それが第一段階ではないかと思います。 そうしないと,自分は何から救われたかったのかを,自分で理解することが出来ないからです。 自分を責めるばかりでは,「自分は駄目だ」「強い意志を持たなければ」 という思考になりがちで,かえって自分を追い込む道にはまりこみかねません。 私はといえば。 長い時間をかけて,ようやく 「依存するしかなかった自分」 を持て余していた段階から, 「許してやろう」と思えるようになってきたところです。 依存症である自分(あえて現在形)に, 「よく頑張ったね,よく生きていたね」と時々言葉をかけています。 自分に甘いと思いますか? |
|
でも,それほどの状況だったのだと。 わかってあげられるのは,やはり自分しかいないのです。
否定するよりも,「物語」として客観視できる段階に入ってきたのかもしれません。 |